ふつうの子どもたちと、ふつうを突き破っている親子の群衆劇
昨年、9年ぶりの監督作である『ぼくが生きてる、二つの世界』を発表した呉美保監督の次作が早くも公開された。『きみはいい子』でそれぞれの問題を抱える親と子、彼らに関わる教師や近隣の老人の姿をリアルに描いた呉監督が10年ぶりに子供の世界に戻ってきた。
もともと、私は子供が主役である大半の映画やドラマは苦手である。それらに出てくる子供たちは、ふつうの子どもが言わないような論理的な台詞を話し、堂々としている。現実の子どもたちは秩序立って物事を話せるには経験や知識が足りずにもっと情緒的なはずだが、物語の流れに合うように大人のような発言をすることにリアリティを感じられず、話に入ることができない。
もちろん例外は多くて、たとえば小津安二郎映画に出てくる子どもたちやドラマ全盛期の『熱中時代』に出てくる子どもたち、洋画では古くは『禁じられた遊び』から『トリュフォーの思春期』、『小さな恋のメロディ』に出てくる子どもたちは自然な演技で観客を魅了する。
ここから一つ進んだ演技を見せるのが是枝裕和監督映画の子どもたちである。『誰も知らない』の時には子役に台本を渡さずに直前に口頭で台詞を伝えて柳楽優弥にカンヌの最優秀男優賞をもたらしたが、それ以降は台本を事前に渡すかも含め子役のタイプに合わせて判断し、演技指導しているようで、『奇跡』『そして父になる』『怪物』などに出てくる子役の演技は自然かつ達者である。
この映画に出てくる子どもたち、とりわけ中心の3人の演技は絶賛されているようだ。主には題名にあるどこにでもいるふつうの子どもの日常を演じる子役たちの演技が素晴らしいといったものだ。この中でも特に主役である唯士役嶋田鉄太君の飄々とした演技は素晴らしいし、3人以外でも唯士に優しい女の子、昆虫好きの子などの演技も愛らしい。しかし、彼らは皆ふつうの子どもだろうか?
主人公の唯士はストーカー的な一面もあり、陽斗は破天荒だが、まあこういう子もいるよねと思う。子ども以外も唯士の母である蒼井優は教育熱心で亭主を尻に敷いているが唯士には寄り添っているふつうの親だし、風間俊介はどこにでもいる先生を演じ、校長先生も常識的である。
この中で瑠璃さん演じる心愛だけはふつうの子という感じではない。環境問題に強い関心があり、授業中も先生の静止も聞かずに自分の主張を感情的に叫び続け、休み時間や放課後も一人で環境問題に関する本を読んでいる。いじめに近いことを言われても我関せずの態度である。終盤のある会議の中では他の二人がほとんど喋れなくなっている中でも堂々と事実と意見を主張する。もともと日本人は集団の中であまり自己主張することはなく、少なくとも私の子どもの頃はこういう子はいなかったし、大人社会でも割と異分子扱いされやすいタイプであろう。だが、この瑠璃の存在が無ければほのぼのとした映画に緊張感をもたらせなかったろうし、物語の意外性を引っ張るキャラクターになっている。
一方でこの子の出る場面はリアリティが希薄になることも生じる。もっとも、牛が出てくるあたりは少しファンタジーっぽい演出になっており、監督と脚本家はリアリティ一辺倒の流れは最初から目指していなかったのだろう。
映画の話からは離れるが、こういう瑠璃みたいな子がある特定の世界のリーダー的存在になるのかもしれないし、話広げると、停滞する日本にはこういう子も必要なのかもしれない。
最終盤になって瀧内久美が登場し、一気に場を持っていく。エキセントリックなヒール役の演技は凄まじい。最後に親子で緊張する場所へ移動する時にも娘に付き添わず他人の幼い子にちょっかいを出す演出も凄い。
映画の前半は緑多い自然やオープンで美しい学校をバックにアップを多用するカメラワークである種の桃源郷にいる子どもたちの生き生きした日常を描き、途中からは空き家をアジトとする独善的な活動家たちの活動と内輪揉めでストーリーを引っ張り、親3人が出てくる最後は親子のキャラを際立てさせる群衆劇で締める脚本と演出は流石の呉監督、高田亮脚本家の3度目タッグでした。(これ以前は『ここのみにて光輝く』、『きみはいい子』)
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