ぼくのお日さま

映画

寡黙な三人のひと冬の物語

ドビュッシーの月の光は今年の4月に亡くなったフジコ・ヘミングや辻井伸行のピアノ演奏をよく聴く。その月の光で始まり(厳密にはプロローグ的な野球のシーンが始まりだが)、月の光で終わるひと冬の物語。監督、脚本、撮影(!)、編集の4役をこなすのはデビュー作の『僕はイエス様が嫌い』(未鑑賞)でサンセバスチャン国際映画祭の《最優秀新人監督賞》を受賞した奥山大志(若干28歳!)。
主要人物は3人で、少し吃音のある奥手な少年タクヤの越山敬達、フィギュアスケートに打ち込む美少女さくらの中西希亜良、有名なフィギュアスケートの選手だったが今は友人の故郷でスケートのコーチをしている荒川の池松壮亮である。池松壮亮って多分自分がこの10年で見た映画に一番出ているんじゃないだろうか。


この映画は寡黙である。タクヤの家族の両親と兄は夕食の場面で一度紹介されるが、それ以外は兄が一度出るだけ。さくらの母親はフィギュアスケートに熱心であることを感じさせるが、その他の家族や家は出てこない。さくら自身も自分の感情を表すのは荒川との訣別のシーンのみで、何を考えているかは分かりずらい。荒川は過去にフィギュアスケート雑誌に掲載されたりカレンダーになったりしたところを見ると少なくともそれなりの人気選手だったのだろうが、なぜ友人の故郷で無名選手をコーチしているかは語られないし挫折への思いもわからない。
タクヤは吃音であるが特にそれで周りからいじめられているわけでは無い。しかし野球をやってもアイスホッケーをやってもどこか上の空で、アイスホッケーでは皆やりたがらないキーパーをやらされている。彼を囲む同級生や小柄な友人、兄の描写は自然で、セリフもああこの年代の子供だったらこういう言い方だろうなと納得させる。子供のセリフが妙に論理的で違和感を感じる映画やドラマが多いが、そいいう意味ではこの映画は自然な描写とセリフで映画への距離を縮めている
タクヤは自身のアイスホッケーの練習後に、フィギュアスケートの練習をするさくらを食い入るように見つめる。それは、さくらに一目惚れしたようにも見えるが美しいスケーティングに魅入ったようにも見える。おそらく両方なのだろうが、後者の割合が大きいように私には思えた。
さくらを個人レッスンする際にタクヤのその姿を見た荒川は、我流でフィギュアスケートの練習をするタクヤにアドバイスし、自分が子供の頃使っていたスケート靴を貸し与える。そしてタクヤの熱心さとスケーティングの向上を感じた荒川は、さくらが殻を破るのにもプラスと思い、二人をアイスダンスのペアとして指導するようになる。二人のアイスダンスは順調に向上し、三人で行った凍った湖での練習と行き帰りの車の中では三人ともこれ以上無い楽しい時間を共有するのだが。。。


しかし、その後さくらは湖への車中で自分が座っていた助手席に座る荒川の友人の五十嵐(最近売れまくっている若葉竜也)と荒川の間に通常の男同士の関係を越える何かを感じ、また荒川がタクヤと仲良くする姿を見て、荒川に対してタクヤ君を好きなの?気持ち悪い、と吐き捨て、二人と訣別してしまう。その後、さくらはアイスダンスの試験に何も言わずに来ず、荒川はさくらの母親から一方的にレッスンの破棄を伝えられる。さくらの心の動揺は、二つの出来事を見る表情と、いつもは助手席に乗っていた母親の送迎の車で後部座席に座るようになるという描写で表している。このあたり、この年代の少女の心の敏感さとある意味残酷さを表しており見事である。

結局、唯一の生徒であるさくらを失った荒川は同居する五十嵐の元を去り、おそらくは別の土地でのコーチ職をするために去っていく。また、コーチとペアのいなくなったタクヤもあれほど熱中していたフィギュアスケートを諦めてアイスホッケーチームに戻っていく。その点だけ見るとバッドエンドだが、荒川は都落ちから本来の居場所に戻ったとも言えるし、タクヤもこれまでと違う積極さでアイスホッケーに取り組むようになっている。そして、荒川の指導中に荒川の目をまっすぐに見れなかったさくらはラストシーンで堂々とした美しい滑りを見せる。月の光が流れる中、屋内のスケートリンクには複数の窓から入る陽の光が逆光となり、奥山監督の撮影でさくらは美しい舞を見せる。もともと4歳からフィギュアスケートをやっている中西さんのスケーティングは見事だが、彼女らを指導する池松の佇まいやスケートの姿勢もいかにもスケートのコーチっぽく見えて素晴らしい。また、現役時代の写真も宇野昌磨あたりを彷彿とさせ、それっぽい。

冬の始まりから春の訪れをまでの一冬を時間軸とするこの映画は、寡黙さの中で二人の子供の成長と一人の大人の再生を描いている。屋内のスケートリンクやその周りの風景は北海道の田舎を感じさせるが、五十嵐の部屋のベランダから見る町や荒川と五十嵐がさくらに見られるシーンは小樽あたりの大きな町のようでもある。奥山監督は映画の舞台を特定の町に設定せずに、架空の街としてのファンタジーとしたかったのかもしれない。登場人物の感情表現は最小限にとどめて、淡々とひと冬の物語を描いている。

余談ですが、ぼくのお日さまという題名はタクヤにとってのさくらもしくは荒川を表しているのかと思っていたら、この映画の主題歌として採用された元々ある歌のタイトルなんですね。不勉強で、この歌も、演者であるハンバート ハンバート(ナボコフ作ロリータの主人公の名前!)も知りませんでした。。。

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