1960年のアメリカを大作家がトレーラーハウスで一周。旅の面白さと疲弊感。
『怒りの葡萄』、『二十日鼠と人間』、『エデンの東』などで有名な’アメリカ文学の巨人’スタインベックの晩年の作品の青山南による新訳。時は1960年で、JFKとケネディの大統領選挙の年。黒人の公民権運動は真っ盛りで、キューバ危機の2年前。ベトナム戦争にはアメリカはまだ介入していないという時代。自分の国を知らないと思った作者はロシナンテと名付けたトレーラーハウスで愛犬のチャーリーと共に三ヶ月間のアメリカ一周の旅に出る。ニューヨークからアメリカ北部を横断して故郷でありエデンの東の舞台であるカリフォルニア州サリーナスへ行き、そこからアメリカ南部を横断して戻ってくる旅である。
まず、書き出しの文章と訳が素晴らしいので、長いがそのまま転載する。
『とても若くて、どこかへ行きたいというジリジリとした想いに捕まえられていた頃、おとなたちから、おとなになればそんなうずきはおさまるもんだ、と説得された。大人と言われる年齢になると、その処方箋は、中年になればおさまるヨ、になった。中年になってみると、老年になればお前の熱病も流石におさまるだろうサ、とまたまた説得されたが、いよいよ58歳になったいま、はて、老齢はしっかり仕事をしてくれているか?ダメだ、効き目なし。船の汽笛が四発、しわがれた声を発すると、いまでもなお、首筋の毛は逆立ち、足は床をたたきはじめる。ジェット機の音、エンジンが始動する音、さらには蹄鉄をはいた蹄が歩道をコツコツと打つ音でさえ、古来からのおののきを招き、口はかわき、目はうつろに、手のひらは熱くなり、胃のギュンギュンという唸りは胸までのぼってくる。おさまらない、なおらない。おおげさに言うなら、ブラブラ癖がついたら最後、いつまでもブラブラ癖は消えていかない。これは不治の病なのでは、とこわくなる。こんなことを言うのは他人さまに教え諭したいからではない、自分に言い聞かせている。』
旅の前半では主にトレーラーハウスでの旅の様子や地元の人たちとの交流が描かれる。スマホもGPSも無くノマド用のキャンプ場も少ない時代に道を迷い、車を停める場所での地主との交渉に苦労し、車が故障し、愛犬は病気になるなど、苦労しながらも広大なアメリカ北部の旅を楽しむ姿が描かれる。地元の人との交流はトレーラーハウスに誘って一緒にコーヒーや酒を飲んで雑談する程度のもので、印象的な出会いや交流があるわけではないが、それぞれ数十分か数時間の付き合いの中で当時のアメリカの田舎の人々の姿が伺えて面白い。
これが、旅に疲れ始めて故郷のカルフォルニア北部に着いてからの記述は一変して、旅自体の記述はほとんど無く、まともに描かれているのは故郷での幼馴染たちとの交流、テキサスでの富豪たちとの豪華なパーティの様子、ニューオーリンズでの黒人排斥運動の様子のみである。文章の長さも行きの1/3程度。故郷では出て行った人間としての疎外感を感じ、テキサスでは富豪の退廃的な宴に呆れ、ニューオーリンズでは人種差別主義者にキレるなど、旅での疲労感は増し、最後は疲れ果ててニューヨークのロングアイランドに戻ってくる。
全部で400ページ以上ある長編だが、文章は読みやすくスラスラ読めた。当時のアメリカの雰囲気を感じられる。前半はロードムービーで後半は70年前後のアメリカン・ニューシネマのテイストかな。訳者あとがきを読むと、この本は、数年前のアカデミー作品賞を受賞した『ノマドランド』の原作ではこの本が現代のノマドたちの愛読書になっているらしい。また、ある新聞記者によるとこの本に書かれていることのほとんどはフィクションで、作者はキャンプはほとんどせず快適なモーテルに泊まっていたという意見もあるそうだ。その真偽はともかく、作者は少なくとも後半はノマド的暮らしに心身とも疲れて家に帰りたがっていたと思うが、現代のノマドたちはどう感じているのだろうか。
私も旅は好きだが、旅に出ることは家での暮らしの良さを再確認するための作業でもある。渥美清さんは『遠くへ行きたい』という旅の本質を表した素晴らしい歌の前口上で、こうも言っていた。
どっか行きたい
でもどこ行ってもすぐ飽きちゃうんだよな
こんなこと言って歳とっていっちゃうんだ
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